2014年8月15日金曜日
2014年8月12日火曜日
チャクラサウンド瞑想
1989年頃に和尚の弟子である二人のセラピストによって提案、創造された2つのチャクラに関わる瞑想法があります。 チャクラサウンド瞑想はその内の1つです。
この瞑想はもう一つの瞑想(チャクラブリージング・・以前記述)とは対照的で、とても穏やかで親しみに満ちた瞑想法となります。
私見ですが、私たちを1つの絃楽器(例えばギター)と見るならば、7つの絃はチャクラに例えることができます。
各絃がそれぞれが固有の周波を有するように、各チャクラもそれぞれ固有の周波を有しています。
絃を奏でることから美しい音楽が生まれるように、チャクラが奏でられる時、至福に満ちた何かが生まれてきます。そう私たちは自身の演奏家であり指揮者なのです。
この瞑想はそのチャクラを調律(チューニング)していきます。
楽器がそうであるように正しく調律されたチャクラはそれだけで美しい音色と調和を奏でます。
そして私たちを本当に深く寛がせていきます。
チャクラと言うとそれぞれの意味や働きに眼を奪われがちですが、本当はバランスがとても大切なことなのだと言うことを実際に体験させられる技法の一つです。
この瞑想はもう一つの瞑想(チャクラブリージング・・以前記述)とは対照的で、とても穏やかで親しみに満ちた瞑想法となります。
私見ですが、私たちを1つの絃楽器(例えばギター)と見るならば、7つの絃はチャクラに例えることができます。
各絃がそれぞれが固有の周波を有するように、各チャクラもそれぞれ固有の周波を有しています。
絃を奏でることから美しい音楽が生まれるように、チャクラが奏でられる時、至福に満ちた何かが生まれてきます。そう私たちは自身の演奏家であり指揮者なのです。
この瞑想はそのチャクラを調律(チューニング)していきます。
楽器がそうであるように正しく調律されたチャクラはそれだけで美しい音色と調和を奏でます。
そして私たちを本当に深く寛がせていきます。
チャクラと言うとそれぞれの意味や働きに眼を奪われがちですが、本当はバランスがとても大切なことなのだと言うことを実際に体験させられる技法の一つです。
2014年8月7日木曜日
マスターズライフ
私事だが今年2つの瞑想が生まれた。
と言っても未明の私故に瞑想擬きエクササイズ(笑)と言った方が正しいと思う。
いわば瞑想の下準備として行うエクササイズとしては過去多々試みてはきたが、卑しくも瞑想と呼ぶものは初めての経験だった。
その1つはレインボーヴィパサナと名付け、もう1つはマスターズライフと名付けた。
レインボーヴィパサナは後日に・・・・と思うので、今日はこのマスターズライフについて呟いてみたいと思う。
まず名称の「マスターズライフ」とは文字通り「マスターの生」という意味だ。
この場合マスターとは悟りを開いた人、自己認識に至った人を指す。
そして多分マスターならば今この瞬間をこのように存在、あるいは生きているだろうとフト想像したことが始まりとなった。もちろん私の独断と偏見に満ちて(笑)だが・・・・
この瞑想は いわゆる「無選択の気づき」へと誘えるように構成している。瞑想の根幹であるリラクゼーション+アウェアネス である。 そしてその道筋として客観的気づき、主観的気づき、宇宙的気づきを旅する。
これらの言葉にあまり馴染みが無い方のために少しだけ補足させて頂く。
客観的気づき とは日々私たちの周りで起こっている事柄に気付くことだ。
例えば近くの樹にカラスがいるとしよう。 私たちは無意識に気付き無く風景の一部としてカラスを捉えることもできれば。カラスの存在を意識し、気づきをもって見ることもできる。
試してみるといい、そこには大きな違いを感じるだろう。 これが気づいているということだ。
同様に主観的気付きというものがある。
これは自分自身に気付いているということだ。私たちは幾つかの層を内包している。
動きを司る肉体、考えることを司るマインド、感じることを司るハート等だ。
この主観的気づきではステップを踏んで、それぞれのスペースで今起こっている事に気付きをもたらす。
次に宇宙的気づきがある。
それは無または虚空と呼ばれ、客観的、主観的気づきの背後に臨在する全てだ。
それを言葉にしようとすることすら虚しく感じる。
そして最後にこれら全てを選択無しに気付く。あるいはただ気づきのみとなる。
どうだろう? 何か引かれるものを感じて頂けたろうか?もし何かしら興味を感じられた方がいらしたなら、ぜひとも一度試して欲しい。
手前味噌で恐縮だが、私はこの瞑想を通じて次の一歩を踏むことができた。
わかりきったことを具現化しただけだが、時にはこのように足元を固めることも必要なのだということがわかった。
試してみたい方はどうぞ。
マスターズライフ
と言っても未明の私故に瞑想擬きエクササイズ(笑)と言った方が正しいと思う。
いわば瞑想の下準備として行うエクササイズとしては過去多々試みてはきたが、卑しくも瞑想と呼ぶものは初めての経験だった。
その1つはレインボーヴィパサナと名付け、もう1つはマスターズライフと名付けた。
レインボーヴィパサナは後日に・・・・と思うので、今日はこのマスターズライフについて呟いてみたいと思う。
まず名称の「マスターズライフ」とは文字通り「マスターの生」という意味だ。
この場合マスターとは悟りを開いた人、自己認識に至った人を指す。
そして多分マスターならば今この瞬間をこのように存在、あるいは生きているだろうとフト想像したことが始まりとなった。もちろん私の独断と偏見に満ちて(笑)だが・・・・
この瞑想は いわゆる「無選択の気づき」へと誘えるように構成している。瞑想の根幹であるリラクゼーション+アウェアネス である。 そしてその道筋として客観的気づき、主観的気づき、宇宙的気づきを旅する。
これらの言葉にあまり馴染みが無い方のために少しだけ補足させて頂く。
客観的気づき とは日々私たちの周りで起こっている事柄に気付くことだ。
例えば近くの樹にカラスがいるとしよう。 私たちは無意識に気付き無く風景の一部としてカラスを捉えることもできれば。カラスの存在を意識し、気づきをもって見ることもできる。
試してみるといい、そこには大きな違いを感じるだろう。 これが気づいているということだ。
同様に主観的気付きというものがある。
これは自分自身に気付いているということだ。私たちは幾つかの層を内包している。
動きを司る肉体、考えることを司るマインド、感じることを司るハート等だ。
この主観的気づきではステップを踏んで、それぞれのスペースで今起こっている事に気付きをもたらす。
次に宇宙的気づきがある。
それは無または虚空と呼ばれ、客観的、主観的気づきの背後に臨在する全てだ。
それを言葉にしようとすることすら虚しく感じる。
そして最後にこれら全てを選択無しに気付く。あるいはただ気づきのみとなる。
どうだろう? 何か引かれるものを感じて頂けたろうか?もし何かしら興味を感じられた方がいらしたなら、ぜひとも一度試して欲しい。
手前味噌で恐縮だが、私はこの瞑想を通じて次の一歩を踏むことができた。
わかりきったことを具現化しただけだが、時にはこのように足元を固めることも必要なのだということがわかった。
試してみたい方はどうぞ。
マスターズライフ
2014年8月6日水曜日
ヴィパッサナ瞑想
ヴィパッサナ瞑想は仏陀が考案した瞑想だと聞く。
しかし私はこの瞑想法の何ら伝統も仕来りも知らない。私が知っているのは私のマスター(和尚)がこの瞑想について語った小さな講話だけだ。
だがその小さな講話は私に届いた。
和尚は言った 「ヴィパサナは、ほかのどんな方法よりも多くの人びとを光明に導いた瞑想法だ。なぜなら、ヴィパサナは瞑想の本質そのものだからだ。ほかのすべての瞑想法にも、それと同じ本質がある。だがその形態が異なっている。何か本質的でないものがそれに結合されている。だがヴィパサナは純粋なる本質だ。そこからはもはや何も落すことができないし、何かを加えて改良することもできない」
この短い言葉が私に何かを決意させ、私はその日からヴィパサナ瞑想を始めた。
だが今だから話すが実は私にとってビパサナ瞑想は最も避けてきた瞑想技法の一つだった。
じっとして座る、何もしない、冗談ではない!(笑) 私のマインドはいつもうなりを上げ走りまっわていた。
こんな無意味なことを回避してとにかく何か答えが欲しかった。
ただそれらが世間に外の世界に無いことだけは焦燥の人生の果てにどこか理解していた。
以前「初めての瞑想」で話したように私は何処かで瞑想に引きつけられながら、その準備は何もできていなかった。
だが今理解した。
私がこの道に踏み込むことができたのは 和尚の忍耐強い誘いと、和尚の瞑想のおかげだ。
和尚の瞑想はまるで小さな子供が引きつけられ夢中になる玩具のようなものだ。
私が一番に学んだことは「瞑想が楽しい」ということだ。そしてその楽しみは徐々に育まれた。
そして瞑想と遊んでいる間に土壌は整えられた。
今思えばちょうどその頃に和尚のガイダンスが私に届いた。
ヴィパサナは本当にシンプルな瞑想技法だがその恩恵は限りなく大きい。
それはまるで一滴の水のようだ。
だがその一滴の水が千年にも及ぶ大樹を育む。
無為の出来事、入息と出息、ただそれらに気付きをもたらす事から
2014年8月1日金曜日
私は誰?
私は誰?
これは内なる探究者(笑)であれば誰もが真っ先に浮かび、問う言葉だ。
ほとんどの人が己の人生で一度はこの問いに出くわしているはずだと思う。
しかし次の瞬間日々の雑事が思考が欲望がそれを覆い隠す。
運よくこの問いを脳裏に写メできた人だけが、この確信的な呼びかけに応じることを試みる。
しかしそれは広大な砂漠で探す一本の針のようであり、尚且つ誰もその針を見たことが無い。
一方ふと立ち止まり思いを広げてみると大いなる驚きが見える。
なぜなら私たちは誰も「私は誰?」なのかを知らぬままに存在し、生きている。
しかもそれは生きとし生けるもの全てにも共通し、それらがこの地球を覆い尽くしている。
私は誰?
この問いはいったい何処から出てきたのだろう?
この言葉の背後にあるものはいったい何なのだろう?
私を知らぬ者がいったい何を知っているというのだろう?
ある日私の中に問いが現れた。
そして広大無辺な沈黙があとに続いた。
これは内なる探究者(笑)であれば誰もが真っ先に浮かび、問う言葉だ。
ほとんどの人が己の人生で一度はこの問いに出くわしているはずだと思う。
しかし次の瞬間日々の雑事が思考が欲望がそれを覆い隠す。
運よくこの問いを脳裏に写メできた人だけが、この確信的な呼びかけに応じることを試みる。
しかしそれは広大な砂漠で探す一本の針のようであり、尚且つ誰もその針を見たことが無い。
一方ふと立ち止まり思いを広げてみると大いなる驚きが見える。
なぜなら私たちは誰も「私は誰?」なのかを知らぬままに存在し、生きている。
しかもそれは生きとし生けるもの全てにも共通し、それらがこの地球を覆い尽くしている。
私は誰?
この問いはいったい何処から出てきたのだろう?
この言葉の背後にあるものはいったい何なのだろう?
私を知らぬ者がいったい何を知っているというのだろう?
ある日私の中に問いが現れた。
そして広大無辺な沈黙があとに続いた。