2015年2月26日木曜日

アナパナ・サティ・ヨガ















私の瞑想の師であるインド人の神秘家である和尚が語った初期の講話の一つに以下の話があります。アナパナ・サティ・ヨガ・・・・私たちが良く知るヴィパサナ瞑想の原型ですが、この講話から瞑想の、ヴィパサナの本質を読み取ることができます。ちなみに「ヴィパサナ」とは気付いているという意味だそうです。

アナパナ・サティ・ヨガ
太陽をまだ一度も知らない花と、そして太陽に出会った花とは同じではない。それは同じではありえない。日の出を知らない花は、それ自身の内に昇る太陽を知ることもない。それは死んでいる。それはただの可能性でしかない。それはそれ自身の精神を決して知らない。しかし、日の出を見た花は、それ目身の内に昇る何かをも知っている。それはそれ自身の魂を知ったのだ。今やこの花はただの花ではない。それは深くわき起こる霊性を知ったのだ。
どうしたら私たちはこの霊性を内側に創造できるだろう? 仏陀はある方法を考案した。それは内なる覚醒の「太陽」を創り出すための最も強力な方法のひとつだ。それを創り出すだけではない。この方法は単に内なる覚醒を創り出すだけでなく、同時に、その覚醒が身体の細胞そのものにまで、人の実存全体にまで浸透するのを許す。仏陀の用いたこの方法はアナパナ・サティ・ヨガとして知られている。吸気と呼気の覚醒のヨガとして。
私たちは呼吸している。しかし、それは無意識の呼吸なのだ。呼吸はブラーナだ。呼吸はエラン・ヴァイタル(活力、生命そのもの)だ。しかし、それは無意識のままだ。あなたはそれに醒めていない。そして、もし呼吸するためには醒めていなければならないのだとしたら、あなたは死んでしまう。遅かれ早かれ、あなたは忘れてしまうからね。あなたは何ひとつずっと覚えつづけていることなどできないのだ。呼吸は私たちの随意系と不随意系をつないでいる環だ。
私たちはある程度までは呼吸をコントロールできる。少しの間だったら止めることさえできる。しかし、永久に止めることはできない。それは私たちなしでもつづく。それは私たちに依存してはいな。
たとえあなたが何力月も昏睡状態にあったとしても、あなたは呼吸をつづける。それは無意識の働きなのだ。
仏陀は呼吸を同時にふたつのことをするための手段として使った。ひとつは、意識を創り出すこと。そしてもうひとつは、その意識が身体の細胞そのものにまで浸透するのを許すことだ。
彼は言った。「呼吸を意識しなさい」と。これはプラーナ・ヤマ (ヨガの呼吸法) を意味しているのではない。それはそのままの呼吸を、ただ覚醒の対象にしなさいということなのだ。あなたの呼吸をえる必要はない。それをそのまま自然にしておくのだ。それを変えたりしないこと。だが、息を吸う時は、意識して息を吸うのだ。あなたの意識が内に向かう息と共に動くようにしなさい。そして、息が吐かれる時には、あなたの意識がそれと共に出ていくようにするのだ。
呼吸と共に動きなさい。あなたの注意が呼吸と共にあるようにするのだ。それと共に流れなさい。ただのひと呼吸も忘れないこと。仏陀はこう言ったと伝えられている。「もしあなたがほんの一時間でも醒めていられるなら、あなたはすでに悟っているのだ。」と。しかし、ただのひと呼吸も見逃がされてはならないのだよ!
一時間で充分だ。それはほんの僅かの、ひとかけらの時間のように見えるかもしれない。だがそうではない。あなたが醒めていようとする時、時間は一千年間にも感じられるだろう。というのも、普通あなた方は56秒も醒めていられないのだからね。とても油断のない人だけずやっとそれだけの時間醒めていられる。私たちの大部分は毎秒、見逃がしてしまう。
もし、あなたが吸う息から覚めていることを始めたとしたら、それがほんの少ししか入らないうちに、あなたはどこかへ行ってしまう。突然、あなたは息が出ていくのに気がつく。それはもう出てしまっている。だがあなたはどこかに行ってしまっていたのだ。 呼吸に醒めているということは、ひとつの思考も許されないことを意味する。なぜなら、思考はあなたの注意をそらしてしまうからだ。
仏陀は決して「思考を止めよ」とは言わない。彼は「呼吸を意識せよ」と言うのだ。自動的に思考は止むだろう。あなたは考えながら呼吸を意識することはできない。思考があなたの心(マインド)に入り込む時、あなたの注意は呼吸からそらされてしまう。たったひとつの思考でも、あなたは呼吸のプロセスに無意識になってしまう。
仏陀はこの技法を使った。それは単純な技法だけれど、とても活力に満ちたものだ。彼は比丘()たちによくこう言ったものだ。「何であれしていることをしなさい。しかし、ひとつ簡単なことを忘れてはいけないよ。出たり入ったりする息を覚えているのだ。それと共に動き、それと共に流れなさい。」
あなたがそれをすればするほど、それに努力すればするほど、あなたはいっそう意識的になるだろう。それは骨の折れる、困難なことかもしれない。しかし、一度それができるようになれば、あなたは異なった人に、異なった世界の人になったのだ。
この方法は別の面にも働く。あなたが意識的に呼吸する時、だんだんとあなたは自分の中心に近づいていく。というのも、呼吸はあなた実存のそのまさに中心に触れるからなのだ。毎瞬、毎瞬、呼吸は内に入り、あなたの実存の中心に触れる。
呼吸は生理学的にただ血液を浄化をするだけのものとあなたは思っている。しかしもしあなたが呼吸に醒めていることを始めたなら、少しづつあなたは生理学よりも深くへ入っていくだろう。そしてある日、あなたは臍のすぐ近くの自分の中心を感じはじめるだろう。この中心はあなたが絶えず呼吸と共に動く時にのみ感じられる。なぜなら、あなたがこの中心に近づけば近づくほど、醒めているのが困難になってくるからだ。
あなたは息が入っていく時にそれを始めることもできる。それがまさに鼻に入ろうとする時、それに醒めていることを始めるのだ。それが内に動いていけばいくほど、覚醒はいっそう難かしくなってくる。思考がやってくる。あるいは何かの音が。何かが起こるかもしれない。そしてあなたはどこかへ行ってしまう。もし、あなたがまさに中心にまで行けたなら、僅かの間呼吸が止まり、そこに隙き間がある。息は入り、そして出ていく。このふたつの間に微妙な隙き間がある。この隙き間があなたの中心なのだ。
長期間の呼吸の覚醒の練習の後にのみ、最終的にあなたが呼吸にとどまれるようになり、呼吸に醒めていられるようになった時、そこに何の呼吸の動きもない時に、あなたはこの隙き間に気がつくようになる呼吸が入ってくるのでもなく、出ていくのでもない時、呼吸の間の微妙な隙き間の中あなたは自分の中心に在る。だから呼吸の覚醒は、仏陀によって用いられた中心にいっそう近づくための手段だったのだ。あなたが息を吐く時、その呼吸に意識的でいなさい。そこにも再び隙き間がある。隙き間はふたつあるのだ。ひとつは息が入ってしまい、それが出て行く前に。そしてもうひとつは、息が出てしまい、それが再び入ってくる前に、この第二の隙き間に醒めているのはいっそう難しい。入ってくる息と出ていく息の間にあるのがあなたの中心だ。
しかし、もうひとつの中心がある。それは宇宙の中心だ。あなたはそれを「神」と呼ぶかもしれない。息が出てしまい、入ってくる前の隙き間にあるのがこの宇宙の中心なのだ。このふたつの中心はふたつの異なったものではない。最初に、あなたは自分の内の中心に気づくようになり、そして次には、外の中心に気づくようになるだろう。その時には「外」と「内」はその意味を失ってしまう。
仏陀は言う。「呼吸と共に意識的に動けば.あなたは内側に覚醒の中心を創り出すだろう。」ひとたびこの中心が創り出されたなら、覚醒はあなたの細胞そのものにまで動き始める。なぜなら、あらゆる細胞は酸素を必要とするのだ。いわば、あらゆる細胞は呼吸するからだ。
今や科学者たちは、地球さえも呼吸する、と言っている。全宇宙が息を吸う時、それは膨張する。全宇宙が息を吐く時、それは収縮する。古いヒンドゥーの神話的経典(プラーナ)には、創造はブラフマンのひと息(吸気)であり、そして破壊つまり世界の終わりはブラフマンの呼気であるだろう、と記されている。ひとつの息がひとつの創造なのだ。
とても微細な、とても子的な形で、同じことがあなたの中で起こっている。そして、あなたの覚醒が呼吸とひとつになった時、呼吸はあなたの覚醒を細胞そのものにまで運んでいく。その時、あなたの身体全体が宇宙となる。実の所、その時あなたは物としての身体など全く持っていない。あなたはただ覚醒なのだ。
和尚

2015年2月19日木曜日

二つの体験

生には二つの体験がある。
一つは外側の体験だ。人は目を開き外側へと歩み出さなければならない。
そうしなければ体験は体験されないだろう。
それは得ていくことの体験だ。
この体験は多様に無限に存在し、日々増え続けている。
それはあなたに有益性をもたらし、あなたを広げ、豊かにするだろう。

そしてもう一つの体験は内側の体験だ。
今度は人は目を閉じ沈黙し内側へと向かわなくてはならない。
これはまったく私的な旅の体験となる。
それは失っていくことの体験だ。
この体験はあなたが消え去ることを通じて成就される。
それはあなたに寛ぎと平安をもたらすだろう。




2015年2月18日水曜日

瞑想 リメンバー ユアセルフ アズ ライト

光としてのあなた自身を覚えておく

この技法も古代瞑想の書 「ビギャン・バイラブ・タントラ」 からの一つです。

まず自身のハートを意識し、まるでランプに火を着けるがごとく、
ハートの中に火を灯します。

次にその炎によって、ランプが光に満ち輝くように、
自身の身体全体が光で満たされ輝くのをイメージします。

そしてまるでランプの光が輝きながら揺れるように踊りの中へと入っていきます。

最後にハートに炎に気付きながら寛いでいきます。


シンプルですが、実は奥が深い技法です。でも深みは和尚の解説に任せることにします。
興味がおありの方は 瞑想の書 「ビギャン・バイラブ・タントラ」 をご一読下さい。

でもこの瞑想を行った日は、一日中ハートの優しさ、暖かさと共に過ごすことができますよ。



目覚めているとき、眠っているとき、夢見ているとき、自分を光であると知る。

たいへん難しい。まず目覚めているときから始める…。
目覚めているとき、動いているとき、食べているとき、
働いているとき、自分自身を光として想起する。
あたかも、ハートの中で炎が燃え、
体がまさにその炎をとりまくオーラになったというふうに、想像してみる。

ハートの中で炎が燃え、体はまさにその炎をとりまく光のオーラだ……
体はその炎をとりまく光だ.これを自分のマインドや意識の奥深くまで入り込ませ、
かみしめる。

そうしたら、眠りに落ちるときその炎を感じ、その炎を見、自分が光だと感じてみる。

それを想起し、想起し、想起し、そして眠りに落ちる。
するとその想起は継続する。

最初のうちは夢の中で、「自分は内側に炎を持っている、自分は光だ」と感じるだろう。
そして少しずつ夢の中でも、その同じ感覚をもって振舞えるようになる。
ひとたびこの感覚が夢の中に入ったら、夢はだんだん消え去っていく。
徐々に夢は減っていき、深い眠りが増していく。

夢の全体を通じてこの現実が示されたら、つまり、「自分は光だ、炎だ、燃える炎だ」
という現実が示されたら、一切の夢は消え去る。
夢が消え去って初めて、この感覚を眠りの中に持ち込めるようになる…。

ひとたび「自分は炎だ」という感覚とともに眠りの中に入ったら、あなたはその中で
覚醒している。眠りは体にだけ起こり、あなたには起こらない。

和尚 
vigyan bhairav tantra (第7 巻37 ページ)