ヴィパッサナ瞑想
ヴィパッサナ瞑想は仏陀が考案した瞑想だと聞く。
しかし私はこの瞑想法の何ら伝統も仕来りも知らない。私が知っているのは私のマスター(和尚)がこの瞑想について語った小さな講話だけだ。
だがその小さな講話は私に届いた。
和尚は言った 「ヴィパサナは、ほかのどんな方法よりも多くの人びとを光明に導いた瞑想法だ。なぜなら、ヴィパサナは瞑想の本質そのものだからだ。ほかのすべての瞑想法にも、それと同じ本質がある。だがその形態が異なっている。何か本質的でないものがそれに結合されている。だがヴィパサナは純粋なる本質だ。そこからはもはや何も落すことができないし、何かを加えて改良することもできない」
この短い言葉が私に何かを決意させ、私はその日からヴィパサナ瞑想を始めた。
だが今だから話すが実は私にとってビパサナ瞑想は最も避けてきた瞑想技法の一つだった。
じっとして座る、何もしない、冗談ではない!(笑) 私のマインドはいつもうなりを上げ走りまっわていた。
こんな無意味なことを回避してとにかく何か答えが欲しかった。
ただそれらが世間に外の世界に無いことだけは焦燥の人生の果てにどこか理解していた。
以前「初めての瞑想」で話したように私は何処かで瞑想に引きつけられながら、その準備は何もできていなかった。
だが今理解した。
私がこの道に踏み込むことができたのは 和尚の忍耐強い誘いと、和尚の瞑想のおかげだ。
和尚の瞑想はまるで小さな子供が引きつけられ夢中になる玩具のようなものだ。
私が一番に学んだことは「瞑想が楽しい」ということだ。そしてその楽しみは徐々に育まれた。
そして瞑想と遊んでいる間に土壌は整えられた。
今思えばちょうどその頃に和尚のガイダンスが私に届いた。
ヴィパサナは本当にシンプルな瞑想技法だがその恩恵は限りなく大きい。
それはまるで一滴の水のようだ。
だがその一滴の水が千年にも及ぶ大樹を育む。
無為の出来事、入息と出息、ただそれらに気付きをもたらす事から
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム